いつかみた風景


季節はずれの雛人形

人は自らの思いを、何かに託すのではないだろうか。打ちひしがれた日々は、つらさとそれにも負けない希望を、幸せな時はあふれる喜びを。その思いは時として、時間を超えて甦り伝わることもある。

母の一回忌は、あっという間にきた。ただ慌ただしいだけの一年だったような気がする。それでも自分の中で、一つの区切りをつけることができた。決して幸せではなかった母の人生の悔いも、忘れられるような気がした。法要の日は、そんなことさえ思えるような、小春日和の穏やかな一日だった。
母の遺品は、葬儀のあと始末したので、ほとんど残っていなかった。それでも押入には、いくつかの想い出が残されていた。奥の方から出てきた紐の掛かった紙の箱は、見覚えのない物だった。開けるのを思案してしまうような秘密めいた箱は、随分古びていた。中には、一枚の紙が折り畳まれていた。いぶかしい思いで広げると、そこには雛人形のお内裏様が描かれていた。
もちろん美術品の類の物ではない。きれいに描かれてはいるが、明らかに素人が描いたものだとわかる。絵心のある知り合いにでも描いてもらったのだろうか。

我が家に雛人形が飾られた記憶がない。姉がいたから飾っていれば、幼心にも残っているはずだ。そういう暮らしぶりではなかったことは、おぼろげながらもわかっていたし、母の一生を考えると、当然飾る人形などなかっただろう。母は二人の娘のために、誰かに頼んで描いてもらったのかもしれない。
心やさしい美しい人に育つように、せめてもの母親の願いだったのだろう。
母はこれをどんな思いで飾ったのだろう。それを思うとせつなさと、そんな暮らしの中でも、何かを必死に守ろうとしていた、母のやさしさあたたかさが、強い意志を持って迫ってくる。

長い間飾られることのなかった雛人形は、幸せに満ちたやさしい微笑みをたたえていた。 (01.11.25)

いつかみた風景