ひと夏の大阪−2 それはまだ何の不安も翳りもなく、自分の未来を手放しで信じていた、20代の頃。 進路のことなど何も考えていなかったので、いざ社会に出てみると、自分の学んできたことが、いかに仕事に役立たないか思い知らされた。 それほど強い思い入れがあったわけではないが、当時夏になると、大学のスクーリングに参加していた。身を寄せていた叔父の家を出て、学内の寮に入った。 全国からそれぞれの思いを抱いて、年齢も職業も違う者たちが集まっていた。 寮などとは名ばかりで、学内の広い建物の中に簡易ベッドを並べただけの、粗末なものだった。ちょうど病院の大部屋のようなもので、仕切のカーテンさえなかった。音ばかり大きな扇風機が1台回っていた。 私のベッドの隣は、島根県隠岐島の柳原さんだった。とても無口で、ときおり小さな声ではにかみながら話す人だった。20代30代がほとんどだったから、少し年輩の柳原さんは、みんなの中にとけ込めなかったのかもしれない。 それでも、何か人を包み込むような、あたたかさを持った人だった。 柳原さんは経済の講義を、私は法学の講義を受けていたが、講義の時間以外はいつとはなく、行動を共にするようになっていた。大学の正門から駅へ続く通りの右側に、「あたりや食堂」があった。ここで「豚汁」と「めし大」の夕食をすませ、向かいの「旭湯」へ行く、帰りにたばこ屋で牛乳を飲んで、夜風に吹かれながら帰るのが、いつものパターンだった。 そんな時も、柳原さんはほとんど話さなかった。いつも私が喋るのを、にこにこしながら聞いていた。そう若くはない年で、奥さんと二人の子供を隠岐に残した大阪での日々を、どんな思いで過ごしていたのか。当時の柳原さんの年齢になった今、あの頃ふと遠くを見るような目をしていた意味が、少しはわかるような気がする。 そんな柳原さんが話してくれたことで、唯一心に残っているのは、隠岐の海の青さだった。 季節を感じるものがない生活でも、スクーリングが終わる頃には、吹き抜ける風にも心なしか秋の気配を感じるようになった。 元の生活に戻れるという安堵と、元の生活に帰らなければいけないという心残りのような思いが入り交じって 、言いようのない切なさを感じていた。そんな思いからだろうか、それとも山に囲まれて育った私の、海への憧憬からだろうか、私は終了式を待たずに、柳原さんと一緒に、山陰本線の夜行列車に乗っていた。 季節は夏から秋へと変わろうとしていた。 |