いつかみた風景

ひと夏の大阪−1

あれはもう20年以上も前の夏のこと。大阪の叔父が天王寺の近くで、婦人服の縫製をやっていたので、そこに身を寄せていた。家の前には3人入ればいっぱいになるような、カウンターだけの一杯飲み屋があった。その間の狭い道を踏切を渡って少し行くと、大通りへ出る。
そこから駅までの道は、私にとってまるで異国のようだった。仕事にあぶれた労務者が、そこかしこにたむろしていた。仲間となにやら言い争っている者や、朝から酒を飲んでいる者。死んだように、道端に寝ている者も少なくなかった。
真夏の太陽が、アスファルトと労務者の体から、メラメラと立ち上っていた。 初めて目にする光景に、暑さとともに立ち眩みを覚えながら、場違いな自分に目を伏せ、足早に駅へ急いだ。それでも人間の神経は、麻痺していくもので、何日か繰り返しているうちに、その驚きや恐怖のようなものは、いつのまにか薄らいでいった。気がついたときには、当たり前のように、通り抜けていた。
通り過ぎるたびに地震と間違った電車にも、シーツに赤い斑点ができるほど悩まされた南京虫も、むせかえるような暑さにも、徐々に慣れていった。

私が寝起きしていた、屋根裏を改造した部屋の薄い壁一枚隣には、従業員の若松さんが住んでいた。山陰のどこかの町から来ているとかで、いつもにこにこしていた。 突然転がり込んできた私にも、とても親切で毎晩布団に入ってから、いろんな話をしてくれた。今思うと、一人大阪に出てきた私への、思いやりだったのかもしれない。
慣れたと思っていた大阪の暮らしも、少しずつ私にダメージを与えていた。 いつもと変わりなく起きた朝、洗面所で倒れてしまった。単なる夏バテと低血圧だったけれど、心配した叔父の手前、寮に入ることにした。
若松さんは、いつものようににこにこしながら、「またおいで」と言って、荷物の整理を手伝ってくれた。 数年後に、何も言わずに出ていったと叔父から聞いた。
今頃どうしているのだろう。今でも時々夏になると、走り去る電車の轟音の向こうに、若松さんの笑顔を思い出すことがある。(12.08.20)

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