姉を乗せたバス
日本の織物産業が隆盛を極めていた時代があった。
「ガチャマン」といわれ、織機の音がガチャとなれば1万円儲かるといわれた程、すごい時代だった。私の町の近くにも全国有数の織物の町があった。全国各地から集団就職でやってきた若い女性で、町は溢れかえっていた。
私の六つ違いの姉は、中学を卒業するとすぐに、ミシンの縫製工場へ勤めた。
まだ幼さを残しながら家を離れていった姉も、そんな我が子を送り出した両親も、どんな思いだったのか、当時の私は知る由もなかった。
姉は毎月一回だけ、バスに乗って帰ってきた。今から思えば、それが給料日だったのだろう。姉は私へのみやげに、いつも付録のついた雑誌を買って帰ってくれた。
付録を組み立てたり雑誌を読むのに夢中になって、姉がどんな休日を過ごしていたか、まったく知らなかった。
母はいつもいなりずしを作って、姉の帰りを待った。普段は暗くなるまで外で働いていたが、その日だけは早く切り上げた。私はそんな母を見て、姉の帰りを知り、みやげの雑誌に胸躍らせた。
姉と母のつかの間の休日は、あっという間に過ぎた。土曜日の夕方帰ってきた姉は、日曜日の夕方にはまた戻っていった。母と二人バス停まで見送りに行った。
姉を乗せ遠ざかっていくバスに、母はいつも呟いた。
「帰ってきてやれやれ、行ってやれやれ」
母にしてみれば、里心がついて仕事に戻るのが嫌だと言い出さないか、心配だったのかもしれない。
それでも毎月一回帰ってくることができた姉も、元気な姿に会えた母も、まだ幸せだったのだろう。故郷を思いながら淋しさに耐えていた女性や、故郷で我が子の体を気遣っていた親が、数知れずいたのだから。
そんな親子によって支えられていた、時代だったのかもしれない。
やがて成人し近くの町に嫁いでいった姉は、母に食べさせようと、巻き寿司や鯖寿司を作ってよくやってきた。けれど姉が、いなりずしを作ってくることはなかった。
母がいつも作っていたので、姉の好物だと思っていたが、あれは単に安くて簡単に作れるからという理由だったのかもしれない。
もしかしたら姉にとって、我が家に帰っていなりずしを食べていた思い出は、せつないものだったのかもしれない。
母がため息のようにつぶやきながら見送ったバスの中で、姉は小さくなっていく母の姿を、どんな思いで見つめていたのだろう。
それもこれも今となっては、セピア色に変色した写真のように、記憶の彼方にかすんでいる。
(02.06.24)
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