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墨絵の街(誕生日に寄せて)

電話の声が変だったと心配してメールをくれたけれど、お前にそんなふうに思われるなんて、お父さんも随分老いぼれたものだ。情けなかったりちょっとうれしかったり、複雑な気持ちだった。

お前は私たちにとってはじめての子供だった。それでもお母さんはとても元気だったし体調も良かったので、不安はなかった。それなのにどうしたことか、何時間経っても分娩室から産声は聞こえてこなかった。 いらだつ時間だけが過ぎていった。
じっとしていることに耐えられなくなった頃、病院の先生に言われた。
「もしかしたら赤ちゃんは、諦めていただくことになるかも知れません。」

お父さんは、その後どこでどうしていたか憶えていない。何も考えることができず、気がついたときには病院の屋上に佇んでいた。
夜がうっすらと明けようとしていた。屋上から見下ろした街は、まるで墨絵のように色彩がなく、霧の中にぼんやりと浮かんでいた。あたりが少しずつ色を取り戻すのを、祈ることも忘れて見ていた。
あの日がついこの間のような気がするのに、お前はもう一人で歩き出す年齢になった。

お前には随分手をやいた。学校へも何度も行った。小児喘息の発作で、一晩中背中に負ぶって過ごしたこともあった。それでもお父さんは何かあるたびに、病院の屋上から見下ろした夜明けの街を思い出した。
ほんの少し何かが違っていたら、今のお前もお父さんもいなかったのだ。そう思うとすべてのことが、何でもないことのように思えた。よその子より手がかかることも、みんなと少し違っていることも、お父さんにはかえってうれしかったのかもしれない。

そんなお前が、バイトとはいえ人様からお金をいただけるようになった。
バイトで買ってくれたあのベスト、冬の間中毎日着ていた。背中が暖かくて、まるでお前を負ぶっているようだった。
人より遅れて歩いてもいい。人に勝とうなんて思わなくてもいい。周りの人に感謝して、誰からも好かれる人になってくれ。功を急ぐ生き方は、お前には似合わない。かっこ悪くてもいい。うまくできなくても絶対途中で投げ出さない、そんなお前のことをわかってくれる人が必ず出てくる。お父さんは信じている。

今でもお父さんには、あの日の墨絵の街が見える。
(02.11.07)

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