隠岐の海

「今日はしけちょるけん、気つけてな」
海がしけることがまるで自分のせいでもあるかのように、やなさんはすまなさそうな目で私を見た。私は何も言えずにただ頷いた。


まだ20代だった頃、夏の間職場に休暇願を出して、大阪で過ごしたことがあった。自分がやってきたことと、これからやるべきことに、大きな隔たりを感じ、その隔たりを少しでも埋めることができればと思った。職場に無理を言って、大学の夏期講習に参加した。
隠岐島のやなさんとは、そこで出会った。
それまで見てきた大人とは、どこか違っていた。私とは随分歳が離れていたが、そんなふうに私を見ることはなかった。何をしているかとか、何のために参加しているのかといったことは、何も聞こうとはしなかった。そして自分のことも話そうとはしなかった。まるで昔からの知り合いで、そんなことなど必要ないとでもいうように、いつもにこやかに接してくれた。私も警戒心を抱くこともなく、むしろ懐かしさにも似た温かさを感じていた。
私は当時、自分のやりたいことと、生活のために仕事をすることの狭間で、揺れ動いていた。一夏の間に決着をつけようと考えた。
秋風が立ち始める頃、夏期講習は終わった。答を出しあぐねた私は、やなさんが話してくれた、隠岐の海の青さに惹かれるように、山陰本線の夜行列車に乗った。
隠岐での一週間の間、来る日も来る日も青い海を見て過ごした。

隠岐の海は風が吹くたびにキラキラ光るので
西郷の港はじっと息をひそめている
それでもときおり
漁船をポンポンポンとなかせて
青い入江に白い線を引いていく
防波堤に立てば
波が話しかけるけれど
波の言葉はもう思い出せない
旅の終わりを告げるように
おきじ丸は汽笛を鳴らす
切れたテープが波間に舞えば
隠岐の夏は終わる


「乗ったら投げてくれや」
やなさんはポケットから紙テープを出して、恥ずかしそうに笑った。
それが合図のように沖路丸は、蛍の光を鳴らした。
私は心を残しながらタラップをのぼり、やなさんが一番近くに見えるデッキから、身を乗り出すようにしてテープを思いきり投げた。
やなさんに届いたのは、赤いテープ1本だけだった。

♪忘れしゃんすな 西郷の港・・・

しげさ節とともに船は桟橋を離れていった。テープはくるくると空に舞い、やがて波に散った。口々に名を呼び、別れを告げる人々に押されながら、私は切れたテープを握りしめ、「ありがとう」と口だけ動かした。
降り出した雨の中、傘もささずに手を振ってくれたやなさんを残し、船は西郷の港を出ていった。

港の影が雨に消える頃、私は荒れる暗い波間にため息を一つ捨てた。それは、捨てきれずにずっと引きずってきた夢への、決別だったのかもしれない。

(02.12.01)

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