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枯れ松

我が家の庭に古い松の木がある。あったと言うべきだろうか。

我が家は元々高台にあったのだが、父の代に現在の道路沿いに移り住んだ。松の木はその時に庭木の一本として、植えられたものだろう。

私の祖父は、父が18歳の時に亡くなっている。祖父亡き後気丈な祖母は、女手一つで長男の父を筆頭に5人の子供を育てた。祖母の苦労は容易に想像できるが、それ以上に苦汁を舐めたのは父だったのではないだろうか。
それこそ食べるものも食べずに、寝る間も惜しんで働いた。それは私が物心ついた頃から感じていたので、それ以前の生活は、さらに厳しいものだったに違いない。

それでも父は、負けることが何より嫌いだった。自分の境遇を人のせいにすることはなかった。人に厳しかったが、それにもまして自分に厳しい人だった。
庭の松の木は、そんな父の意地の表れでもあるかのような立派なものだった。
父は、毎年自ら手入れをしていたので、その枝ぶりは美しかった。

頑固で一本気で、隆々とした松の木のような父の生涯は、92歳で終わった。
まるで後を追うかのように、松の木は枯れ始めた。
葉が落ち枝だけの松の木は、雨風に打たれ少しずつ朽ちていった。
最期は太い幹だけになってしまった。
それでも最期まで働きとおした父のように、倒れることなく凛として立っている。

姉たちは、我が家へ来るたびに、切ってしまうように忠告した。
確かにみすぼらしく哀れに見えるかもしれない。
けれど私には、歯を食いしばって必死に生きてきた父の姿に見えてならなかった。
年々父を感じることが少なくなりつつある親不孝の私ではあるけれど、老いた松の木を見るたびに、涙と汗にまみれた父の面影が浮かんでくる。
到底父には敵わないけれど、それは私に生きることの何かを語りかけているような気がした。

私が家の庭に、今でも古い松の木がある。

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