レッドクレーに落ちた涙
('99フレンチオープンテニス・ファイナル)
6月のバリは青空が広がっていた。背後にはきらめくばかりの新緑のブローニュ。
緩やかな風が、時折コートに赤い砂塵を巻き上げていた。
パリのローラン・ギャロスには、赤い魔物が住んでいると言われる。
毎年波乱が多く、実力ある者が必ずしも勝てるとは限らない。
それはまるで「神」に微笑まれたものしか、勝ち残れないかのようだった。
99年全仏オープンテニスもシードダウンが相次ぎ、ファイナルのコートに立ったのは、13シードのアンドレ・アガシとノーシードのアンドレイ・メドベデフだった。
離婚の痛手を負ったアガシ、恋人との仲を修復したメドベデフ。予想もしなかった顔合わせに、パリの新聞は「愛を失ったアガシ・恋を取り戻したメドベデフ」と書き立てた。
センターコートに立った二人の胸には、そんな思いもかすめていたのだろうか。
序盤はメドベデフの一方的な展開だった。190q台のサーブ、堅実はショット。それは完璧に近かった。第1セット6−1、第2セット6−2と、あっと言う間にメドベデフがモノにした。これがグランドスラムのファイナルかと疑うほど、あっけなかった。
誰よりもそれを感じていたのは、アガシ自身だった。
「このまま終わっては、大会のため、ファンのために申し訳ない」
2年連続ファイナルまで進みながら、あと一歩のところで敗れ去った苦い過去が、頭をよぎったかもしれない。
しかしアガシは変わっていた。あれから8年。8年という歳月は、人を変えるのに充分すぎるほどの長い時間だった。結婚そして別れ。希望と失望は一人の若者を、29歳という大人に変えていた。
そして何よりもランキングのダウン。141位という奈落の底で、きっと絶望を見ただろう。けれどアガシの透明で深い瞳は、未来や栄光をも見ていたのかもしれない。過去の栄光ではなく、必ず訪れるであろう未来の栄光を。
絶望という点では、メドベデフも同じだった。5年前、19歳という若さで4位まで登り詰めながら、怪我や故障に泣き、ランキングも100位まで落としてしまった。
どちらにとっても、復活を賭けたセンターコートだったに違いない。
第3セットに入ると、徐々にアガシ本来のプレイが戻ってきた。
サーブがよく入るようになり、スーパーリターンがきまった。いつの間にかアガシは、思い通りのテニスをしていた。そうなれば流れは一気にアガシに傾いた。
それでもメドベデフは、最後まで自分のレベルを崩さなかったし、集中力は持続していた。決して諦めなかった。それなのに終わってみれば、アガシは四大大会全制覇という歴史的偉業を成し遂げていた。
それは最初メドベデフに微笑んでいた神が、第3セットからアガシの方を向いた、そんなことを考えてしまうほどの、感動的なゲームだった。
第5セット、5−4で迎えた第10ゲーム。40−15のマッチポイント。
メドベデフのフォアのレシーブが、ベースラインを割った。その瞬間、アガシはラケットを投げ捨て両手を空高く上げた。
涙でしわくちゃの顔で立ちつくすアガシ。そんなアガシに歩み寄り、強く抱きしめるメドベデフ。重なった影の上を時間は緩やかに流れた。そんな二人を大観衆の歓声と拍手が包み込み、一つの歴史が作られた。
そこにいるのは、勝者と敗者ではなかった。死力を尽くして戦ったという、達成感・充実感を分かち合う同士に他ならなかった。
表彰台に上がってもアガシのスピーチは、しばらく言葉にならなかった。 色々な思いが、体の中を駆けめぐっていたことだろう。
それは、大会の主催者や対戦相手を讃えることを忘れるほどだった。
「長い間夢見ていたことが、ようやく叶った。自分がここで勝てる日が来るなんて、諦めかけていた。でも、とうとうやったんだ。まるで夢を見ているようだ。」
喜びの涙にくれるアガシ。その傍らでメドベデフは、うなだれ悔し涙でウェアの襟を噛みしめた。ほとんど手にしていた栄光が、指の間からこぼれ落ちたのだ。その悔しさはどれほどだったろう。
それでも表彰台の上で穏やかな表情で語り始める彼は、もう敗者ではなかった。
「私は、アガシとともにここにいることを、誇りに思う」
その言葉は、敗れて尚彼が偉大であることを証明するのに、充分だった。
そしてこうも言った。
「また来年も戻ってきます。今度はカップを手にするために・・・」
アガシと同じように、彼も未来を見ている。誰もがそう思った。
多くの人々が、それぞれの人生を抱えてパリに集まる。
別れの痛みをこらえるアガシ。そんな彼を励まし続けたコーチ、ギルバート。
愛に勇気づけられ、世界一幸せ者だと言いながら、最後まで戦ったメドベデフ。
そして恋人を優しく見守り、祈るように応援していたアンケ・フーバー。
その一打・一球に彼らの、そして彼らをとりまく人々の、熱い思いが込められている。
歓喜の涙と悔恨の涙。希望と絶望。いくつもの生き様に赤く染められたローラン・ギャロスは、静かに結末の時を迎えその幕を下ろした。
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