「いつか見た風景」のトップページへ戻ります街のスケッチ

街のスケッチ(1)−お茶の味

そろそろ店を閉めようか。幸田さんは、時計を見ながら思った。
通りの街灯はもう明かりがついていた。
先代から受け継いだ店をなんとかやってきた。自分なりのやり方で、新しいお得意さんもできた。いつになくそんな感慨にふけりながら店を見回したとき、冷たい風が舞い込んでお客さんが入って来た。
それがいつも上等のお茶を買いにきていた女性だと気づくのに、時間がかかった。
もう何年も前から、決まって毎月買いに来てくれていた。落ち着いた立ち振る舞いや、洋服の趣味の良さなど「天祥」がよく似合っていると思った。
ところがここ1・2年、ばったり見かけなくなった。気になっていたが、どこの誰かもわからなかったので、そのうち忘れていた。久しぶりの来店に見違えてしまった。すっかりやつれて別人かと思った。変わっているのはそれだけではなかった。いつもなら迷わず「天祥」を買ってもらうのに、随分迷っている。奥にいた奥さんも、おかしいと思った。

「寒くなりましたね。お茶を入れましたのでどうぞ」
そっと声をかけて、店の隅のテーブルにお茶を置いた。
奥さんが店に出るようになってから、お客さんにお茶を出すようになった。どのお茶にしようか迷っているお客さんには、それとなくお薦めのお茶を入れて出す。決して押しつけがましくなくて、そのタイミングが絶妙だった。それを「売り」にするつもりだどなく、実にさりげなかった。

「ありがとうございます」
女性客は、申し訳なさそうに腰を下ろし、ゆっくりとお茶を飲んだ。
「あ〜ぁ、やっぱりおいしい」ため息とともにそう言うと、ハンカチで目を覆った。
「お客さん・・・」
後は奥さんに任せて、幸田さんは黙って奥へ引っ込んだ。
「ごめんなさい。久しぶりに天祥をいただいたので、つい・・・」
「主人がとても好きだったんです。もう一度飲ませてやりたかったと思うと・・・。もう吹っ切れていたはずなのに」
「ご主人、お亡くなりに・・・」
黙って頷き、またハンカチで涙を拭った。奥さんは何も言わずに、自分も腰を下ろした。
「お恥ずかしいですが、主人と一緒になるまでは、お茶なんて何でもよかったんです」
女性客は、涙を止めるように話し出した。

彼女の主人は、腕の良い建具職人だった。昔気質で人が良かったが、お茶にだけはうるさかった。することや料理には何も言わなかったが、彼女の入れるお茶が気に入らなくて、いつも文句を言っていた。
「私がお茶の味がわからなかったのが、いけなかったんです」
思い出すように話すのを、奥さんは黙って聞いていた。
「それでも何度も叱られているうちに、私にもなんとなくわかるようになってきました。何十年も一緒にいて、ようやくお茶がおいしいと思うようになった頃に・・・」
店の外はもう暗くなっていた。街路樹はすっかり葉を落として、街灯にふるえていた。

「主人、筋ジストロフィーだったんです」
「まあ〜」
最初は歩くのが不自由だった。原因がわからなくて病院を転々とした。筋ジストロフィーだとわかったときには、もう車椅子の生活だった。
「年をとってからの発病だったので、二ヶ月の命だって言われました」
「そんな、ひどい」
奥さんは、急に口の中が苦くなるのを感じた。
「治療法がないんです。死を待つだけ、残酷な病気です」
「二ヶ月の命と告げられてから、二年後に亡くなりました。頑張ったんですよ」
彼女はもう泣いていなかった。かわりに奥さんの目には涙があふれていた。

「皮肉なものですね。やっとお茶の味がわかって、ようやくあの人のことを理解できたと思った頃に・・・」
「思い出すのが辛くて、天祥を飲まないようにしていました。それなのに、近くまで来ただけなのに、気がついたら店の中にいました」
「でもよかった。奥さんのお茶をいただいてわかりました。主人はまだ私の中にいるんです。このお茶は、主人が私に残してくれた大切なものなんです」
奥さんは、何か言うと涙声になりそうで、黙って何度も頷いた。
「すみません。すっかり話し込んでしまって、いつもの・・・」
「ありがとうございます。いつもの天祥です」
いつの間にか店に出てきていた幸田さんは、包装した天祥を差し出した。

すっかりふけてしまった街には、イルミネーションが踊っていた。その中を帰っていく女性客を見送りながら、奥さんは思った。お茶の味、私はわかっているだろうか。あの人は、私のお茶をどんな思いで飲んでいるのだろう。

女性客がダンスブティックRISの角を曲がって見えなくなると、奥さんは暗い空を見上げた。降ってきそうな星が、空一面に散らばっていた。

この話はフィクションです。お名前や題材は拝借していますが、実在の人物やサイトとはまったく無関係です。お間違えのないようにお願いします。

実在のサイトは下記にあります。是非お訪ね下さい。
お茶の幸田明雪堂へリンクします

「いつか見た風景」のトップページへ戻ります街のスケッチ