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街のスケッチ(3)−カラスなぜなくの

尾島保険事務所からは、今夜も遅くまで灯りがもれていた。
尾島さんは、資料請求の顧客へメールを書き、明日発送する見積書と資料の準備に忙しかった。 一ヶ月も前から奥さんにキツク言われていることが、気になっていた。それでも仕事に追われて、とうとう明日にその日が迫っていた。



角の喫茶店を右に曲がって少し行くと、駅に続く公園がある。夜の公園は、昼間の子供たちの歓声を閉じこめ、じっと息をこらしていた。屋台が今にも消えそうに灯りをつけていた。
「いらっしゃい」
「いつもの」
俺たちが座ると屋台のオヤジさんは、おでんを皿に取り、溢れそうなコップ酒を親父の前に置いた。
「お連れさんは?」
「ああ、同じでいい」
「おまえ、酒なんか飲めないだろう」
「飲めるさ、酒ぐらい」
おでんがなんともいい匂いで鼻をくすぐる。湯気が俺たちをぼんやり包む。酒が飲めれば屋台も悪くない。親父がよく来るのが、なんとなくわかる気がした。
「昔さ、俺がおふくろにこっぴどく叱られて、晩ご飯食べさせてもらえなかったことあったよな」
大根が柔らかくて、口の中でとろけそうだ。
「あのとき、屋台へ連れていってラーメン食べさせてくれたの、憶えてる?」
親父は鼻で笑ってコップに口をつけた。
「あれは、ホントうまかったなぁ。ラーメン食べるたびに思い出すよ」
「で、どうした」
「えっ?」
「だから、なんで儂を屋台へ誘ったんだ」
酒も飲めないのにいきなり屋台へ行こうなんて言えば、誰だっておかしいと思う。俺は酒を一口ぐっと飲んだ。

「酒でも買ってやればいいだろう。親父好きだから」
親父の誕生日プレゼントを何にするのかと女房に聞かれたのは、1ヶ月も前のことだった。
「あなたは毎晩遅いから知らないのよ。お父さん、いつも公園の屋台へ行かれるのよ。家で一人でお酒飲んだっておいしくないわよ」
「それにお体のこともあるし、あまり過ぎない方がいいって病院でも言われているのよ。よその人の健康のことばかり気にしていないで、少しはお父さんのことも考えてあげてよ。」
言い合って勝てるとは思っていなかったが、親父が屋台で一人飲んでいると聞かされて、少なからず胸が痛んだ。 それでも親父が何が好きで何を贈れば喜ぶのか、見当もつかなかった。ずっと気にしながら一日延ばしにしてきた。
朝家を出れば、帰ってくるのはいつも12時を過ぎている。親父のことを考えることなど、ほとんどなかった。 結局誕生日のプレゼントは買えなかった。
今夜も女房は何か言いたそうだったが、俺は無視して親父を誘い家を出た。

「おまえのことだから、どうせそのくらいなことだと思ったよ。おまえからそんなもんもらおうなんて、思うか」 「そんな余計なこと考えてないで、おまえは仕事と子供のことだけ考えてりゃいいんだ」
親父はうまそうに酒を飲んで、オヤジさんにコップを突き出した。
俺は何も言えなくなって、顔をしかめながら酒を飲んだ。散々な親父の誕生日になってしまったと、自分の不甲斐なさが情けなくて、わけもわからず酒を飲んだ。あとは何を喋ったかよく憶えていない。俺ばかり喋って、親父は酒を飲みながら黙って聞いていただけのような気がする。
「帰るぞ」
気がついたときは、俺は親父に抱えられていた。

「だらしがねぇ奴だな。これくらいなことで」
「飲めもしない酒を飲むからだろう」
師走の風が頬に冷たかった。それでも親父の背中は、とても温かだった。親父は、俺を背負ってちょっとふらついたが、すぐに歌いながらとぼとぼ歩きだした。
「カラスなぜなくの、カラスは山に・・・」

俺は確かにひどく酔っぱらっていたけれど、歩けないわけではなかった。だが親父は負ぶって帰ると言ってきかなかった。無理やり背負われた背中は、驚くほど小さくなっていた。子供の頃はあんなに広くて大きかった背中が・・・。そう思うと無性に悲しくなって、背中に顔をうずめた。なんだか子供に戻ったような気がした。

「だらしがねぇ奴だな。これくらいなことで。」
「喧嘩で負けたくらいで泣くな。なあヒロ、大人になったらなぁ、もっともっと辛いことがいっぱいあるんだ。一々泣いてたらおまえ、涙がなくなってしまうだろ。辛くてもな、平気な顔をしてればいいんだ。もう泣かんでいい。」
「カラスなぜなくの、カラスは山に・・・」

頑固で怖い親父だった。一緒に遊んでもらった記憶などなかった。それでも喧嘩して泣いて帰ったり、母親に叱られて泣いたりすると、いつも背中に負ぶってくれた。
「辛くてもな、平気な顔をしてればいいんだ。男はそうやって我慢するしかないんだ。泣いたらよけいに辛くなるだけだ」
そう言ってよく「七つの子」を歌ってくれた。

俺は大人になっても、辛いときや泣きたいときは、「カラスなぜなくの・・・」そう歌ってこらえてきた。
自分では親父を背負っているつもりだったけれど、本当はずっと親父に背負われていたんだ。 親父は俺を背負い続けて、こんな小さな背中になってしまった。そう思おうと不覚にも涙があふれそうになった。
俺はたまらなくなって、なおも強く背中に顔を押し当てた。そして酔っぱらったふりをして、親父の背中につぶやいた。
「親父、長生きしてくれよ」「いつまでも元気でいてくれよな」
聞こえなかったのか、親父は何もこたえなかった。

寝静まった街は、暗闇で俺たちを隠してくれた。親父の歌の他には、何も聞こえなかった。空には降ってきそうな星が、一面に散らばっていた。

この話はフィクションです。お名前や題材は拝借していますが、実在の人物やサイトとはまったく無関係です。お間違えのないようにお願いします。

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