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街のスケッチ(5)−桃色夏椿
 
「お父さん、浩史から手紙来てますよ」
「あいつ余程暇なんだなあ。ここんとこ毎週じゃないか」
「そんなこと言って。ちょっと来なかったら、どうしたんだろうって心配するくせに・・・」
 女房はうれしそうに笑いながら、手紙を差し出した。いつものように住所は書いてなかった。

 息子が家を飛び出して半年程経った頃、差出人の住所のない手紙が届いた。
東京で仕事を見つけて頑張っているから、心配しないでくれと書いていた。
 あまりの身勝手に腹が立ったし、親の言うことも聞かずに飛び出しておいて、手紙を書いてくる神経がわからなかったが、元気でやっているならそれでいいと思った。
 それから毎週のように手紙が届いた。

父さん、元気ですか。
僕は相変わらずです。東京はここのところ、毎日暑い日が続いています。そちらは今頃は緑がきれいでしょうね。
こちらに来るまでは、東京なんてコンクリートばかりで、緑はないと思っていたけど、そうでもありません。仕事に疲れたときは、緑の多い公園で、ベンチに腰掛けてぼーっと眺めています。なんだか気持ちが落ち着きます。
これから暑くなるので、体に気をつけて下さい。

 手紙はいつもどうということもなく、時候の話題ぐらいで大したことは書かれていなかった。仕事は何をやっているのかどこに住んでいるのか、暮らしぶりは書いていなかった。
 それでも以前の息子なら、木々の緑に目をやることなどなかっただろう。家を飛び出して、少しは変わったのかもしれない。住所を知らせてこないのは、もう少しそっとしておいてほしいということだろう。

 私は自分の変化に気づいていた。これまで息子が何を考え何を思い、どんな夢をもっているかなんて、あらためて考えたこともなかった。
息子が出ていったことで、何不自由なく暮らしていると思い込んでいた息子の、心の闇を見たような気がした。
 そして手紙が届くようになって、正しいか正しくないかだけでは、判断できないこともあるような気がしてきた。それが証拠に、いつとはなしに手紙を待つようになっていた。

 ところが、思ってもいないことが・・・。
嫁いだ娘が遊びに来たときのことだった。女房は買い物に出かけて留守だった。
「へえー、あの子手紙なんかよこしてるのね。少しは反省したのね。ふーん・・・。」
「あら?この手紙おかしいわよ、お父さん。消印、これ角の郵便局のスタンプよ」
「そんなばかな!東京で仕事を見つけたって・・・」
「それにこの筆跡は、どう見たって女性よ」
「あれは、母さんに似て字がうまかったじゃないか」
「そうだけど・・・、でもこれはおかしい。これは絶対お母さんの字よ。ほらっ!」

 あらためてよく見ると、そう言われれば女房の字のような気もする。確かに消印はおかしかった。
 だとしたら今までの手紙は全部女房が書いて、角の郵便局から投函していたというのか。私は何も知らずに、息子からの手紙を待っていたのか。そんな私を見て、女房は笑っていたのだろうか。
 私はなんて馬鹿だったのだろう。女房と息子に裏切られたような気がした。
「お母さんもばかよね。勝手に家を飛び出した弟のことなんか、かばうことないのに」
「いや、違う。そうじゃない!」
「まだそんなこと言ってるの」
「これは浩史が書いた手紙だ。このことは誰にも言うな。母さんにも絶対言うなよ!」
 娘はまだ何か言いたげだったが、しぶしぶ帰っていった。

 私は女房にだまされていたと思った。だがよく考えると、そうではないような気がした。私は息子が家を出たことで気が動転していたのだろう。普通なら女房の字だとわかるはずだ。消印だっておかしいと気づくだろう。
 女房は、私がすぐに気づいて、怒るか馬鹿にして笑うと思っていたのかもしれない。落ち込んでいる私を、ちょっとからかっただけなのだろう。
 それなのに私は、まったく疑いもせずに・・・。予想外の展開にきっと戸惑っただろう。引っ込みがつかなくなったのかもしれない。
 いや、そうではないだろう。息子がいなくなって淋しい思いをしているのは、私なんかよりも母親の女房だったはずだ。女房は息子の手紙を書くことで、淋しさを紛らしていたのではないか。壊れようとしている何かを、必死に守ろうとしていたのかもしれない。
 女房はどんな気持ちでこの手紙を書いていたのか・・・。
私は息が詰まりそうになり、大声で叫びたかった。

 開けはなった縁側から、初夏の爽やかな風が吹き抜ける。
私は気が抜けたように縁側に腰を下ろし、ぼんやりと眺めた。女房が毎日手入れをしている庭は緑にあふれ、色とりどりの花が咲き乱れている。
そういえば、こんなふうに庭を眺めたことなどなかったような気がする。
 私たちの銀婚式のお祝いにと、息子が買ってきた桃色夏椿も大きくなっていた。
長い間蕾をつけなかったが、出ていった息子の身代わりとでもいうように、初めて小さな蕾をつけている。
 息子は今頃、どこでどうしているのだろう。


 数日後、母親宛に手紙が届いた。
いつものように差出人の住所はなく、いつもの郵便局の消印だった。
 一つ違っていたのは、女性の筆跡ではなく、見るからにごつごつした男性の文字だった。

花開いた桃色夏椿母さん、変わりはないですか。
東京はすっかり暑くなりましたが、元気で頑張っています。
頑固でうるさい父さんを押しつけて飛び出したこと、本当に悪かったと思っています。
父さんはえらそうなことを言っても、母さんがいないと何一つできない人です。口に出さないけれど、きっと感謝していると思います。
当分帰れそうにありませんが、父さんのことよろしく頼みます。
それから血圧が高いと言っていましたが、くれぐれも気をつけて下さい。

僕が買った桃色夏椿は、今年は蕾をつけたでしょうか?

母さん、ありがとう。



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