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宮本輝「錦繍」とモーツァルト

久しぶりにおいしい珈琲が飲みたいと思った。
ネットで注文すると、届くのがとても待ち遠しかった。 たかが珈琲と思いながら、もしかしたらそういうゆったりした時間に、飢えていたのかもしれない。
封を切るまでもなく、いい香りだ。何かわくわくする。それはCDをはじめて聴く前の、小説の表紙を開く前の鼓動に似ているかもしれない。モーツァルトの40番を流しながら、フィルターに珈琲を入れる。熱湯を注ぐと、琥珀色の泡と一緒に、香ばしい香りが鼻をくすぐる。

モーツァルトに珈琲とくれば、やはり「錦繍」(宮本輝・新潮社)を読もう。
「錦繍」は、何度も読み返して表紙のカバーも擦り切れかけている。モーツァルトの曲以外は流さないと言う喫茶店「モーツァルト」で、主人公がおいしい珈琲を飲みながら、マスターとモーツァルトの音楽について語るシーンが、とても好きだ。モーツァルトの音楽、しいては生と死の本質に迫っていくくだりは、何故かしら読むたびに胸が熱くなる。
モーツァルトのシンフォニーといえば、最後の41番「ジュピター」とこたえる人が多いだろうが、私は40番の方が好きだ。「ジュピター」が、天地万物の創造神の名が示すように、荘厳な響きであるのに対して、40番は静寂で透明な美しさを秘めているような気がする。素晴らしい音楽を聴きながら、おいしい珈琲を飲んでいると、「錦繍」の中で繰り返し語られる、「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じかもしれない。」ということが、何とはなく体の中に、しみ込んでくるような心地がする。
出会いも別れも、喜びも哀しみも、そして生きることや死ぬことさえも、もしかしたら大きな宇宙の不思議なからくりによって、決定づけられているのかもしれない。だとしたら、一人の人間の生や死は、珈琲カップの中でくるくるかき回されている、小さな泡に過ぎないのではないか・・・。

珈琲は、酸味が強すぎることもなく苦みも上品で、しかも飲み干したあと、芳しさがいつまでも残るのがなんともいえない。
時は穏やかに緩やかに流れていく。まるで、私の周りだけ別の次元であるかのように。

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